雷獣ケーキ

東方を中心に二次創作小説やゲームデータを置いたり、思った事を気ままに書いていきます。

【雑記】アニメゼアルというものを再考察してみた

 恐らく緊急事態宣言の影響により、遊戯王セブンスも第五話の後は更新が出来なかった為か再放送になっていました。
 このアニメは4作目から6作目とは違い、久しぶりの遊戯王アニメの良作と言える好調な出だしをしていたものです。
 アニメゼアルとは違って、2クール目までは安定していながらも第一話からシャークが皇の鍵を器物破損するというような『片鱗』のようなものは無くてこのセブンスは今後も信頼して観る事が出来るだろう事が予想されたのですが、前述のように事情により再放送となっていました。
 そこで、その代わりとはとてもならないのですが、私はこの機会にまたアニメゼアルとは何だったかという事を再考察する事にしたのでした。
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 その結果、このアニメゼアルというものは、『監督自身が自分の考えというものを尊重などしていなかった』という結論に至りました。
 それは、このアニメは監督が前作の人気キャラであるディヴァインを崇拝していると思われる為で、その為に『彼のような卑劣な悪人を含めた全ての悪人を許す心』を視聴者に芽生えさせようとしていたように感じます。
 その為にこのアニメでは卑劣な言動を行うキャラクターが呼吸をするかのように台頭してきて、私のようにそういうのが好きでない人はムカムカする気持ちが続いていったものです。
 そこに追記する形になりますが、監督自身がそれらの卑劣な言動を行うキャラクター達に対峙する事で『監督自身が腹を立てていた』という事が窺えます。
 そう、自分で許させようとした卑劣な言動が、自分自身で容認出来なかったという事です。
 その事から、監督には自分自身の考えを尊重するという感覚がないだろうという事が考えられます。
 要は、自分が人を殴るのが好きなのであって、人を殴る事自体が尊重出来ない所を、このアニメは無理矢理人を殴る事そのものを評価させようとするというのが『基本的な成分』となっていた訳ですよね、困った事に。
 アニメゼアルがそのような思想の元に作られただろう事を受けて、私なりの持論をここ最近で抱くようになりました。
 それは、正義を行使する際には信念が伴うだろうけど、『それが自分が行使する場合にのみ尊重されると考えるのではなく、双方に意味がある事を考えなければならない』と『自分の考えを、一つの独立したものとして尊重出来る必要がある』という結論に至りました。
 何だか物語として当たり前に打ち出されていなければならないだろう理論ですけど、驚くべき事にあのアニメでは商業作品であるにも関わらずにそれが無かったのが、逆にこうして見直す結果になって、それは怪我の功名だったのではないかと私は感じます。
 しかし、アニメゼアルに限らずに(このアニメ程ではないにしろ)そういう大切な倫理観が欠落している作品のケースが少なくはないので、これだけを悪者にするのはナンセンスかも知れません。
 最後に、漫画ゼアルがアニメとは徹底的に違う事の象徴である1シーンを載せて締めくくろうと思います。
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 これは、吉田伸氏がアニメゼアルの脚本とシリーズ構成をしながらずっと思って来た事を出力した一場面だと私は思いますね。そして、この教訓は氏が続けて手掛けた漫画ARC-Vでも活かされていました。