※この記事はアニメ版遊戯王ゼアルに否定的な意見がありますので、ご覧になる際はその事を踏まえてお願いします。
日本のネットでは他人の意見、自分の意見を明確にするといった事が悪い事という風潮があります。(それはお前の考えだろ、自分が好きな事じゃないか、等)
そして、アニメ版ゼアルの話になりますが……どうもこの作品、ネットの今作品に対する考察や意見を『過剰に』意識していたように思えます。
例を挙げますと。
1:ゴーシュが牛尾哲に似ているという意見を意識したのか再登場の際に彼に子供好きという設定が付加されていた。
2:トロンやDr.フェイカーを操っていた無名のバリアンがベクターだという事になる。
3:観月小鳥、神月アンナ、それに加えて真月零が登場した事により『最終決戦が月』という噂を取り入れたのか、最後の舞台の前にカイトとミザエルが何故か月で戦う。
等です。
それ故に、監督がネット上の正義である『自分の意見を明確にするのは悪』を順守してしまった可能性は十分に考えられます。
例えば遊馬が意欲的にチャンピオンを目指したり、両親を探し出す姿勢を見せたり、チャンピオンになった後で何をしたいか等が明確にならなかったのも、ネットの正義に苛まれてしまったのなら無理もない事なのではないでしょうか。
対して、吉田伸氏がストーリーを務めた漫画版の遊馬は違います。
特にラストの『アストラルが、絶望の権化であるラスボスのe・ラーを監視しなくてもいい、希望に満ち溢れた世界』を目指して奮闘する遊馬の姿は感動ものです。
つまり、完成度の高い作品を作るには、正義に反した悪い事もどんどんやっていく事も時に必要だと私は思います。