雷獣ケーキ

東方を中心に二次創作小説やゲームデータを置いたり、思った事を気ままに書いていきます。

【雑記】サイコパス式人物構築

 主人公とは何でしょうか?
 まず思い浮かぶのが、物語において中心となり、一番活躍する人物でしょう。
 そういう意味では、例えばドラゴンボールシリーズの主人公、孫悟空は主人公としての役割を他の創作物を探しても彼以上に発揮した人物はそこまで多くはないと考えられます。
 続いて、一番活躍とはいかない、作中最強ではなくライバルの方が実力が高い、他の魅力的なキャラクターの引き立て役となる、そのような人物も主人公である事は少なくないでしょう。
 ですが、そのような人物でも譲れない信念や好感の持てる特徴があったりして、物語の中心人物として意味のある者でなくてはならないでしょう。
 それが故に、作り手の思い入れは一番とは限らないにしても、手厚く愛情を籠められて丹精に仕上げられる存在……それこそが私が主人公を作る上で必要な事だと考えます。

 しかし、サイコパス的な人が作家になった場合には、そのように主人公一人に律儀な情熱を注いだりはしないケースが少なくないようです。

 例えば、神無月の巫女においては作り手の自己投影のメインとなるのは名目上ではもう一人の主人公である筈の『姫宮千歌音』であり、形はそう取ってあるが故に彼女の不在時に姫子だけがいる状態に千歌音の代役として運用されたと思われる『早乙女マコト』、そして姫子は作り手自身には釣り合わないという本音をトコトンぶつけて鬱憤を晴らす為のスケープゴート的な『イズミ』。
 このように今作品においては、主人公は仮に設置されているだけの存在で、物語の主軸はこの三人をひっくるめたものとなっていていたと思われます。

 続いて、アニメ版遊戯王ゼアルです。
 この作品も神無月の巫女のような手法が取られていて、自己投影のメインはアストラルで彼の代わりに主義主張を遊馬に行わせる形で、トロン一家編の主人公にIVを設け、バリアン編にはベクターをも投入する、このような形であると思います。

 これらの手法、要は自分の主張である主要人物を複数設けて、用途によって使い分けるというものなのですよね。
 この事はネットの影響が大きいのではないでしょうか。匿名性により一人一人が発言に一貫性を持たせる必要がない文化の中で育った為に、主人公として一つの影響力の強い存在に物語を仕切らせる必要はないという発想が生まれていったのでしょう。

 私が言いたいのは、そのような手法を用いて物語などを作っても、話の基盤が緩くなって人を魅せる力は少なくなるのではないかという事ですね(例に挙げた二作品は一方でかなり強烈なカルト的な人気もあったりしますが)。

 このような手法を反面教師にして、ヴァンとウェンディにきっちりと主人公性を持たせたのがガン×ソードである訳ですが、一方でこの自分本位な手法をオマージュする形で一種の表現にまで昇華した作品もあるようですね。
オーバーロード
 プラットフォームとなった『小説家になろう』の方の話になりますが、今作品では主軸にはアインズ(モモンガ)を、外部活動における主人公的代役をモモンという存在に扮するナーベラル・ガンマを、侵略者として悪役を演じ、後に主人公が英雄となる為の魔王を用意するという役にデミウルゴスが設けられるという展開になります。
 丁度これ、千歌音、マコト、イズミの構図を参考にして作ったものになっているようですね。
 このようにして、元の作品の歪な造りを自分の作品の味にしてしまう辺り、丸山くがね氏の発想は洗練されたものと言えるでしょう。
遊戯王ARC-V(漫画版)】
 この作品も特殊で、今作品の主人公は榊
遊矢と俗に言う遊矢シリーズ三人(今作品では後に兄弟である事が明かされます)が四位一体で必要に応じて体ごと入れ替わって戦うという一つの存在になっているという思い切った構図になっています。
 この発想は、恐らくアニメゼアルのアストラルとIVとベクターが監督の複数に分けた投影先である事を逆手に取って、ならばいっその事本当に複数で一人の主人公を作ってしまおうという発想に吉田伸氏が至った事なのでしょう。
 これは怪我の巧妙ですね。ゲッターロボのように主役機のパイロットが機体の形態に応じて入れ替わるケースはありましたが、生身の人間そのものが入れ替わるケースというのはそうそうないですから、ゼアルの監督のおかげで吉田氏は奇抜な発想を手に入れる事が出来たとも言えるのではないでしょうか。
(残念ながら初ではないようですね。PCゲーム発でアニメ化もされた『僕らはみんな生きている』という作品が奇しくも先に四位一体主人公という表現を行っています)