雷獣ケーキ

東方を中心に二次創作小説やゲームデータを置いたり、思った事を気ままに書いていきます。

【雑記】ペンと剣の邂逅

【雑記】ペンと剣の邂逅
 まず、私が怒首領欲と呼ぶ存在は人間の頃には1943年という終戦真っ只中の時代に生を受けた事があって恐らく富国強兵主義が根強くそのその根底にあるだろうと思われるのですね。
 なので、武力を否定する格言である『ペンは剣よりも強し』という言葉を『断じて認める事はない』だろうと判断するのが妥当だと推測されます。率直に言えば『右翼思想』と言ってしまっていいだろうという事ですね。
 しかし、ここでペンと剣とは何かという事を整理しておく必要があるでしょう。
 まず、剣というのは物理的な強さや外面を構成する要素であると。
 それに対してペンとは精神的な強さや内面の事にあるだろうという事だと私は考察します。
 そこで、今の私が感じるのは内面の強さと外面の強さは『現実には』密接な関係がある事が自然の摂理となっているという事ですね。
 創作物なんかでは外面の強さよりも内面の強さを大切にした方が好まれるキャラクターが生まれるのは明白ですが。現に無限列車編の煉獄杏寿郎の格言である『強さとは体の事ではない』がありますから。
 しかし、実際は両方とも人間という生き物に備わる訳ですから、どちらか片方だけという器用な磨き方など出来ないだろうという事ですね。
 現実の格闘家の方々が良い例でしょう。確かに一部には粗暴な人間もいますが、高い実力を発揮して世の中に認知されるような洗練された人は『目が綺麗』だと言われるようにその人格も磨かれているという事実がありますので。
 それを私が今実感する所ですね。
 今まで私は腹式呼吸やウォーキングを駆使して着痩せ解消に務めて来た回があって、その効力はみるみる内に体に出る事となったのです。
 それによって、まだ発展途中ではありますが、怒りっぽく慌てやすい私の頭の働きが呼吸が楽になる事で落ち着き始めて、リラックスした心が手に入って来ている訳です。
 即ち、内面の力を高めるには現実には外面も洗練しないといけないという事が言えるだろうと感じる所なのですね。

 その内面の力を引き出すには外面が必要だというのがこの画像でも説明したい所ですね。
 これはクロームブックのパソコンとは違うウィンドウの仕様から偶然出来た事なのです。
 これは、左側が小説ノートのアプリをウィンドウのサイズを調整して配備したもの、右側が私が用意した壁紙の部分という事ですね。
 こういう方法で、本来壁紙を設置出来ない小説ノートを擬似的に春嵐(犬夜叉アニメオリジナルのキャラクター)を配備しながら執筆出来るようになったという事なのですよね。
 これは、小説ノートという内面的なものを出力するツールを、自分の用意した壁紙という外面的な要素でより快適にやりやすくなったという例という事です。
 これらの事を整理すると、内面的な事を打ち出すには外面にも意識を向けていく必要がある訳ですね。
 その結論から今年から私は東方キャラの顔グラフィックを使って『喋ってもらう』という見た目にも目を引くようなブログを展開して行こうと思う次第です。
 ですが、その前に一言は言っておかなければならないという事です。
 それが、現実ではともかく、創作物では心と体の両方が優れている人物の描写は困難であるというものですね。
 それに関してこの二名を例に挙げて説明して行きましょう。

 まず、ガン×ソードのヒロインであるこのウェンディ・ギャレットですね。
 このキャラクターはその言動を読み解いていくと武士道的な観点の元に成り立っている事が分かりました。しかし、『命を粗末にするなんて!』とか『復讐なんて一人でやって!』と名誉の死や仇討ちという武士道の最大の問題点に関しては寧ろ否定的という謂わば『現代風にアレンジされた武士道』的な構図となっていました。
 ともあれ、ここで私が言いたいのは、彼女は戦闘を行わないという制約の元に描写されたからこその武士道で成り立つ人物像の表現が最大点にされたという事ですね。
 宿敵であるカギ爪の男の男に対してまでも、シンカリオンシリーズのような武力を用いての意味合いではなく本当の意味での『対話』で向き合ったのですから。

 対して、次に話題にするのはこの『地上最強の生物』こと『鬼(オーガ)』こと範馬勇次郎ですね(二つ名多いですね)。
 このキャラクターは人間的な描写を徹底的に廃する事でその地上最強の生物の銘に偽りなき物理的に最強の表現が出来る事となった訳ですね。
 はっきり言うと、彼は父親失格どころか、『人間失格』というレベルですので。
 しかし、そのような割り切った表現をしたからこその物理的な強さを彼に表現出来ただろうという事ですね。
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 この二名から私が言いたいのは、心の強さを表現しきるには戦闘をすると邪魔になり、力の強さを表現しきるには人間的やり取りをすると邪魔になってしまうというのが『創作物』であるという事です。
 しかし、優れた兵をアニメキャラに求める怒首領欲はその現実を認めたくはない所でしょう。

 そこで、怒首領欲は小野勝巳監督にこの不動遊星を作らせたという事なのでしょう。
 彼は主人公でありながら良識のある性格とメカニックの才能と物理的な戦いの強さも兼ね備えたまさに完璧超人の銘に相応しい存在となっていましたが。
 まず人物像の描写はウェンディのように対話だけを行わないから彼女よりも表現の面で劣る事になっていますね。主張の際には『デュエルでものを言う』という展開がごく普通でありましたから。
 対して、物理面に関しても良識がある分人間の範疇に収まっていない勇次郎のような意味合いの強さはまるで表現出来ていなかったという事になるでしょう。
 これで、現実の人間に関しては肉体の強さが心の強さになれど、創作物では心の強さと肉体の強さを完全に打ち出す事が難しいと分かってもらえるのではないでしょうか。その事に関して怒首領欲がどう思うのかという事ですね。