雷獣ケーキ

東方を中心に二次創作小説やゲームデータを置いたり、思った事を気ままに書いていきます。

【雑記】小並感にはならないようにしたい230323

【雑記】小並感にはならないようにしたい
 と、こんなタイトルで今まで読んだ本や小説の感想を書くコーナーを設けたいと思いますね。
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[1]宍戸丈の奇天烈遊戯王
 これは、ドナルド氏という人がにじファンで連載が開始し、このサービスが終了した際にはハーメルンに移転して連載が続行していった産物ですね。
 そして、名前の通りに遊戯王の二次創作小説となっていた訳です(主に遊戯王GX)。
 それは開けてビックリというものでしょう。その完成度の高さに驚かされる事となるでしょう。
 情景描写や記述が事細やかになされている訳ですね。そして、ネットでは一人称小説が多い中でありながら有り難い三人称描写なのもその構成の秀逸さに拍車を掛ける事となっています。
 そして、主人公の宍戸丈は所謂チート系の類いの主人公という事でしょう。劇中では負けの描写がないという事になっていましたので。
 しかし、これも安心して読める物語を構築する上で重要な要素となっていたので実に意味があるという所なのですよね。
 そして、小説としての面白さが秀逸な中であっても忘れてはいけないのが、デュエル構成の高さというのもある訳ですね。これが遊戯王小説たらしめているという事ですね。
《ガード・ブロック》が直接攻撃のダメージを防ぎ、かつ一枚カードをドロー出来るという性能が『ザ・逆転カード』とでも言うべき仕様であるから、敵も味方も多様するという傾向は強かったですが。
 それも、物語に必要などんでん返しを成し得る為のツールという事を考えれば多少多く使用されても目を瞑れるものですし、はっきり言ってそれがこの作品の品質を損ねるような事は決してなかったというのは読めば分かると思いますね。
 そして、小説故に原作の漫画・アニメよりも細かい描写になっている事も忘れてはいけないでしょう。一つ例に挙げると原作でペガサスに転落人生を味合わされたバンデット・キースに、改心したペガサスに再起のチャンスを与えられ、見事にそれをものにするというかゆい所に手が届くという配慮が行き届いた展開が多く設けられていたという事ですね。
 カイザー亮が原作ではカミューラの卑怯なデュエルで敗北するが、これでは勝利するという原作の不満点を解消していったという点も見逃せないでしょう。
 残念ながらこの小説は途中で更新が止まっていますので最終回を拝める事がなくなってしまいましたが、それでもそこまで読む価値があるので、興味のある人は是非といった所ですね。
 個人的には商業作品含めて他のどの遊戯王よりも面白いと思った次第です。
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 ここまでが奇天烈遊戯王の感想を私に書かせてもらった次第という事なのですが、ここからはこの小説を巡った闇という所に触れておきたいと思います。
 この小説はその完成度の高さから重宝する人は多かった事が明白ですが、ここで商業者からは意見が分かれたという事だろうという訳ですね。
 それは、
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・奇天烈遊戯王は最高の小説である
・奇天烈遊戯王はアニメ化したら最高傑作となる訳で、これ自体はプロットに過ぎない
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 という二つの見解が生まれたという事でしょう。
 これに関して、怒首領欲と私が呼んでいる存在はこれ以上ない後者の思想に染まった者だった訳ですが。
 人間の場合だと、前者の代表的な人は鬼滅の刃の作者の吾峠呼世晴先生ではないかと思われる所ですね。なので、自分の歴史に残るレベルの大成をした漫画のタイトルはこれと『鬼灯の冷徹』にあやかって名付けたのだろうと思われる訳ですね。
 その根拠は、彼女は鬼滅の主要キャラの一部をのネーミングを夏目漱石の小説の『三四郎』から取っていたからですね。例を挙げると三四郎が炭治郎で、美禰子が禰豆子に拝借されるという感じに。
 この事から彼女が小説が好きだという事が伺えるからですね。漫画家は漫画だけを読んでいては成し得ない場合が多いので、こうして小説が好きでそこからインスピレーションを得ていると考えるのが妥当というものでしょう。
 この事をネットで検索してもヒットしないのは怒首領欲の干渉であり、この存在がこの事を知られては困るからという事でしょう。これだけ人気の作品ならば誰かが気づいていてもおかしくはなかった訳ですから。
 対して、後者も多い事ですが、ここでは私が遊戯王セブンスの近藤信宏監督を挙げておく事にします。
 そして、彼は奇天烈遊戯王のアニメ化が紆余曲折あってドナルド氏の正体と思しき臼井儀人先生の死という事で頓挫した事で暗礁に乗り上げてしまったのですが。
 そこで、怒首領欲らは私に干渉して遊戯王エイス・デイズという小説を書かせて、それをアニメ化する事で遊戯王小説アニメ化計画を再起しようと目論んだという事でしょう。
 それを完璧にする為に近藤監督は私が無限列車編を観に行った次の日に主人公の壮絶な敗北回となる重機愛でる姫君になるように仕込んだという事なのでしょう。
 それにより、監督は私に『コチ・マルティノッジを最後の敵幹部ではなく主人公にする』事と『メンズーアという皆が勝てるチャンスのあるデュエルルールの確立』を行わせようとしたのでしょうね。
 恐らく、近藤監督は『最強のデュエリスト』というものへの執着が凄まじかったのだろうと思われる所です。
 故に、主人公だと戦う回数が増える→必然的にピンチや負けが多くなって弱く見える→なので主人公でないものを最強にする。
 その考えからルークがセブンス劇中唯一の黒星無しという最強キャラになっていたのであり、この辺りは作品に問題ばかりを抱えており多くの作家が反面教師にした筈の神無月の巫女姫宮千歌音と同じ手法を取ったという事なのでしょう。
 なので、ルークでも一年半やるので戦う回数が増えてしまうから、私に小説本一冊分だけの出番となるコチを手掛けさせて主人公にし、それをアニメにしてもらおうと思ったのでしょう。
 それは、やはり近藤監督がアニメでなければ意味がないと思っていたからでしょう。単に出番を少なくさせたいならばアニメ映画監督は難しくとも、自身が小説を書くとか、それが出来なければ監修という立ち回りにでもなれば良かったのですから。
 そして、奇天烈遊戯王には小説では満足していなかったからこそ無限列車編観た後に重機愛でる姫君を持ってくる計画をした事に他ならないでしょう。
 しかし、近藤監督としてはコチの主人公化とメンズーアだけ確立されればそれで良く、後は彦久保氏をデュエル構成者として私に差し向けてくれればそれで良かったのでしょう。
 そこが、怒首領欲との意見の食い違いだったという事でしょう。
 人間として生を受けたのが終戦間近だった怒首領欲はその時代の教育方針を幼少期に受けた為に奇天烈遊戯王のように無償での執筆、即ち無欲が原作になるという構図が重要だったのでしょう。
 なので、この存在は件の計画の効果として私がベランダで歯磨きするようになって着痩せ解消し、その効果によって『デュエル構成も私が自力で行う』事を望んだのでしょう。こうすれば、遊戯王エイス・デイズは奇天烈遊戯王と同じく原作がタダで描いた無欲からなるアニメの確立となる事と狙ったのだろうという事ですね。
 なので、怒首領欲は彦久保氏を私に差し向けるとなれば原稿料を払う必要が出て来て、渇望した無欲の条件を満たせなくなるが為に一向にエイス・デイズ計画が進まなかったという訳なのでしょうね。それも私の他の小説でのデビューをも差し押さえつつ。
 そして、吾峠呼世晴先生は臼井儀人先生の弔い合戦の為にその怒首領欲の思想や近藤監督が自分の漫画の映画を利用する事を受けて、逆にそれらを利用したという事でしょう。
 先生は分かっていたのでしょう。私が着痩せ解消していく事によって思考がクリアになって、ディヴァインがコチを最高のデュエリストとして確立させる為の引き立て役として作られた事に気付くと。
 そうなれば、無理矢理作らせてはいけないというルールに反してエイス・デイズ計画が頓挫する、これを狙ったという訳ですね。
 なので、近藤監督も怒首領欲の執念の被害者という見解も出来る訳ですね。監督としては別に無償でエイス・デイズが描かれる必要は無かったのでしょうから。
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