雷獣ケーキ

東方を中心に二次創作小説やゲームデータを置いたり、思った事を気ままに書いていきます。

【雑記】漫画版遊戯王ARC-V読み返し:前編

 前に遊戯王セブンスが停滞するに至ってアニメゼアルの問題点を掘り返してみたものですが。
 やはり、良くないものを意識するより、良いものへと目を向けるのが最善だと感じました。
 そこで、私は漫画版遊戯王ARC-Vを読み返してみる事にしたという流れです。
 では、再度読み返してみて感じた事を書いていってみます。
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【第一巻】
[表紙:遊矢]
 まず、三好直人氏による超美麗な絵が目に付きますね。改めて漫画という表現法の強さというものを実感させられます。
『絵』というもので魅せる事が出来るのは小説には無い漫画の強みであり、いつでも手軽に見返して『絵』での表現を堪能出来るのはアニメには無い漫画の強みですね。
 この巻は沢渡と黒咲の活躍に集約されていますね。
 まず、沢渡はアニメのように第三話から人質を取ってデュエルを優位に進めようとしたり、あまつさえ最後はデュエルで負けたらリアルファイトで解決しようとしたしょっぱなからのゲスっぷりはなありません。
 更には振る舞いはちゃらいものの堅実にデュエルしていきアニメではボコボコにされた相手であるユートを追い詰めるという善戦をしたり、デュエルで負けたら『自分にもっとジャンプ力があればあのアクションカードは取れていた』と言ってトレーニングへと向かうという、方向性はおかしいものの努力家な一面を見せたりしていました。
 この時点でこの漫画ARC-Vが『わざと○作に作った可能性が高い』アニメ版と違って非常に信頼出来る作品である事が窺えるというものでしょう。
 この沢渡の性格イケメンっぷりは後々終盤になって本領発揮される所ですから、これからこの漫画を読もうとしている方はその辺りも楽しみにするといいでしょう。──残念ながら尺の都合で『デュエル』の機会はこれっきりですけどね。
 それは、同じく吉田伸氏が手掛けた漫画ゼアルの『プリンセス・コロン』にも言える事でしょう。彼女の活躍に期待した人はほぼアニメ版が反映されたVジャンプでの人気投票でベスト5に組み込んでいた事からも察する事が出来そうです。

 続いて黒咲のキャラは非常に味がありましたね。まず遊矢をおびき寄せる為に修造を人質に取るも、アニメ沢渡とは違ってそれだけでありデュエルを優位に運ぶというような真似はしなかったですし。
 更に、自分が騒動に巻き込んだのに柊親子がピンチになっている所を助けて、かつ『真剣勝負の邪魔をするな!』と理不尽な喝を入れたりとか、かなり濃いキャラとなっています。
 そんな彼も尺の都合上『デュエルは』これっきりなのが残念ですね。それでも沢渡同様会話要因として今後とも登場していくので見守ってあげましょう。

 他にも柚子が守銭奴っぷりを見せるという描写など、見所は多い所ですね。
 それと、吉田氏には原作クラッシャーの才能もあるなとこれからの展開からも判断する事が出来ます。
 結論から言うと、恐らく小野勝巳監督の才能を持つ者を無理矢理発掘するという思惑通りに『アニメ版のARC-Vによって絶望の淵に立たされた人』は圧倒的に多かったと思います。ニコニコ大百科でワースト20まで殆どアニメARC-Vで占拠されていたという時期すらあった程ですから。
 しかし、ここで私は声を大にして宣言したいです。この漫画版ARC-Vはアニメでの先入観に囚われないで安心して読んで欲しい、という事をですね。
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【第二巻】
[表紙:ユーゴ]
 この巻は『漫画版における遊矢シリーズ』の本格始動を描いたものとなっています。
 この漫画版ではユート、ユーゴ、ユーリの三人は本体である遊矢と入れ替わって戦うという謂わば『四位一体』という芸当を堪能出来る事となります。
 ゲッターロボなんかは三つの形態を入れ替えて戦いますが、あちらは人間が操縦するロボットであるのに対して、こちらは生身の人間が入れ替わるという、創作物の歴史を紐解いても例は少ない思い切った表現方法だと思われます(勿論全く無い訳ではないでしょうが)。

 ユーリと紫雲院の『ダーティーVSゲス』という勝負は見ものですね。見返してみてその面白さが分かりました。
 ネタバレすると、ユーリは遊矢シリーズオールスター登場時以外には紫雲院戦でばかり駆りだされる事となるのですね。
 これは、多分『毒を以って毒を制す』の精神から来ているのでしょう。現に彼は毒龍がエースモンスターですし。
 そのように少々黒い漫画ユーリですが、ちゃんと倫理的な事は分かっていますし、ただのゲスで敵キャラとしての魅力が無かったアニメ版と違って魅力的な人物に仕上がっていますので見所です。

 続いてユーゴは漫画版オリジナルの敵キャラクターである『蓮』と遊矢の意識の世界の中でライディングデュエルで戦う事となります。と、言ってもここからのデュエルは遊矢シリーズと零児と紫雲院以外は全て漫画オリジナルとなります。
 これは、三好氏の力量発揮というものです。もうこの方はレース漫画の漫画担当をしてもいいでしょうというくらいです。
 この方は絵の学校で確実にスキルを積んだのでしょう。故に様々な局面の描写も描いてしまう事が出来るのでしょう。
 私も絵の学校には行きたかった所ですね。しかし、毒親だった母親に反対されて逆らえずに自分のやりたい事をそれなりに得意だった『英語』だと『偽って』従ってしまっていたものです。
 三好氏はどういう経緯から絵の学校に行けたのかは、親の了承を得られたのか、それとも反対を押し切って自力でアルバイトして学費を稼いで通ったのかは分かりませんが、取り敢えず通う事が出来てこうして漫画を描けるにまで至った事には、おこがましい事を言うかも知れませんが自分自身に感謝すべき事なのでしょう。
 後、蓮の相手のプレイングを削がせるスタイルは以前に読んだ時には共感出来ませんでしたが、今ではその自分の考えは変わっているのを感じますね。
 この事は吉田氏の『ガチガチの正々堂々が全てではない』という勝負における切実な考えなのでしょう。前作の漫画ゼアルの勝負師たる飛車角にもそういうスタイルを持たせていましたし。
 私がそういう考えになったのは、自作の東方projectの小説を書き上げた事が確実に影響しているでしょう。
 それまでは綿月依姫のような武人肌な人物しか受け付けなかったのが、彼女に憧れつつ彼女とは違うやり方で成長していった主人公や、他の東方キャラを描いている内に正々堂々に固執しない考えとなったのが実感出来ますね。
 主人公を自分の分身として描いて共に歩んでいくと考え方は変わってくるのでしょう。これはアストラルを主軸にして遊馬に『代わりに戦ってもらう』という手法を取っていた桑原智監督は恐らく会得してはいない感性でしょう。
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【第三巻】
[表紙:零児]
 この巻は赤馬零児始動の回でしょう。
 この人は真面目なように見えて、どこかずれている、少々天然っぽい所があるかも知れませんね。その辺りが高圧的な雰囲気を和らげていて巧みだと思います。
 そして、彼はそれまでのEXデッキからの特殊召喚方法を全て使うというアニメ版とは大きく異なり、ペンデュラム召喚一筋という男らしい仕様になっています。
 この辺りは、漫画の遊矢が四位一体で戦いそれらの特殊召喚方法を『一人で』こなしてしまう事にあるでしょう。それに対して漫画零児は男らしく特殊召喚方法を一つに絞った、と思われます。
 それに伴ったのか、漫画版の彼の「DDD」モンスターはアニメ版の古代の英雄の名前を取ったものとは違い、学者の名前から取ったものとなっています。
 これは、小野監督が吉田氏に『ペンは剣よりも強し』というメッセージを生み出させるプランだったのかも知れません。剣でものを言わせていた英雄から、ペンで語る役職の学者になった訳ですから。
 しかし、私は理事長(アニメ版の日美香理事長ではなく)に『口はペンよりも強し』を体言する人が確実にこの世には存在する事を思い知らされているので、その内『DDD裂帛王トランプ』とか『DDD真紅王ホーリエ』(ローゼンメイデンネタに走りましたが、元ネタは察しの通り某元社長です)とかいうモンスターを使う零児を生み出している人が出てくるんじゃないかと割と本気で思ってしまいます。
 しかし、そういう口が強い人は、創作物そのものの完成度を高める事は苦手だと相場は大体決まっていそうですけどね。
 話をARC-Vに戻すと、私は個人的にゼロ・マクスウェルのデザインが好きですね。あの怪物と顕微鏡が融合した奇抜なデザインは秀逸です。
 しかし、悪魔族なんですよね、機械族ではなくて。
 どうして遊戯王OCGでは『種族複合』がなされないのかと思ってしまいます。何かそれを行うと不都合が生じるカード効果があるのでしょうね。

 最後に、この漫画は尺が短い事が難儀して気付きづらいかも知れない所ですが、『物語のスケール自体は極めて大きい』事を意識して読むと気付かされる事でしょう。主人公と零児は未来からやって来たとかですね。
 本当に、この漫画版のノリで週一回を三年間行うアニメでやったらどれだけ壮大だと感じる事が出来たかと思うのですけどね。
 しかし、そうでもしないとアニメ版が面白すぎて漫画版が注目されていないというジレンマを解消出来ないだろうと小野監督が考えたのもアニメ版がああなった一因なのでしょう。
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【第四巻】
[表紙:ユート]
 表紙はユートですけど、今巻では彼の目立った活躍は余りありません(泣)。
 ユーゴは蓮、ユーリは紫雲院に対応して大活躍するのですが、彼の場合は遊矢シリーズ総出演の時以外では最初の沢渡戦だけで、しかも窮地まで追い詰められるという世知辛さでした。
 気付けばユーゴはシンクロ召喚、ユーリは融合召喚同士のデュエルに恵まれていましたね。それに対してユートにはEVE組にはエクシーズ召喚の専門家がいなかった為に冷遇気味になってしまったのでしょう。
 今巻の流れは、『EVE組本格始動』といった所でしょう。
 しかし、彼女の組織に某カギ爪の男のそれのように名称がないので便宜上こう呼んでいますが……呼び辛いですね。
 同じ要素を持っていたアニメ5D'sの最終組織であった『未来組』は後に公式で『イリアステル滅四星』という立派な名称を貰ったのですけどね。
 気を取り直して行きましょう。今巻ではしょっぱなからささやかではありますが、柚子の腋チラを拝む事も出来ますし(笑)。
 蓮戦(二戦目)は、最初と同じくライディングデュエルとなります。そして、彼は前回の時は使用しなかった自前の高性能マシンを携えてきます。
 ……何か、同じ条件で戦う筈のデュエルなのに、持ち札の違いで有利不利が出るのは些か理不尽ですね。レースでは当然でも、デュエルとして見ると理不尽であるこの不思議。
 そして、前回は記憶の中だから何とか目を瞑る事が出来ましたが……ノーヘルでバイクに乗るって危険すぎます(苦笑)。これはライダー協会から苦情が来なかったのが不思議な位ですね。
 蓮の真のエースモンスターであるバイファムート。本編では単にシンクロモンスターにチューニングするだけでシンクロ召喚出来たのですね。
 効果が強すぎたからの調整という事なのでしょうね。OCG版で所謂『アクセルシンクロ』仕様になったのは。
 そして、OCGでは絶対不可能な要素である、『実は二体一組』という正体を解き明かすという描写は秀逸です。吉田氏(加えて彦久保氏も?)は『物語だからこそ出来る事』を見事に把握して出力したという巧みさがありますね。
 最後は蓮はシンクロ使いだからって事でしょうか? ライディングデュエルに負けると『転倒』するというアニメ版5D'sのジャック・アトラスのオマージュとおぼしき描写もあるのが、ある意味見逃せませんね(笑)。

 それにしても、G・O・Dって、『マインドコントロールの擬人化』ではないかと思う所ですね。絶望の淵から救ったり、大いに希望を持たせたりしたのだから、『それに報いないといけない』思考にさせる辺り。
 この辺り、吉田氏が5D'sの脚本をやっていた時にディヴァインにマインドコントロールされた状態になる人が続出した事を受けて思う所があったのでしょう。
 彼は劇中では真っ当な本心は持たずにえげつない言動ばかりしていましたが、メタ的な見解をすると、アニメ5D'sの閉鎖的な世界観な上にヒロインのアキを名字で呼ぶ主人公:遊星という絶望的な状況から、あくまで表面だけでも彼が優しく名前で呼んでくれたりした事から、絶望の淵から救い上げてもらった心境となった人が圧倒的に多かったという事でしょう。
 その経緯と、マインドコントロールされた人は自分の入れ込む対象が『あくまで個人的に好き』では帰結せず、最悪の場合認めない人へと攻撃を仕掛けるという悪質さ……この事から吉田氏はそういう『マインドコントロールの概念』そのものを諸悪の根源としてラスボスの座に当てたという事なのでしょう。

 後半はアイザック出陣と、アダムとEVEの事について触れる流れですね。
 それにしても、零児はスペースコロニーまで造ってしまう辺り、やはり漫画ARC-Vの物語のスケールはデカいと再認識させられます。
 そして、アダムはエキゾチックな黒人のイケメンという遊戯王ではかなり珍しいルックスの人なので驚く事でしょう。
 実は無印ではテーマがテーマなだけにエジプト系の黒人は大勢出るのですが、アダムの場合はブラジル系なので、かなり際立った見た目となっています。
 アイザックの『予測不能デッキ』はOCGでは再現が難しいものでしたね。恐らく今でもOCG化されたものが無かったと思います。
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【第五巻】
[表紙:ユーリ]
 表紙がユーリである事が示すように、この巻はユーリが大活躍しますね。
 しかし、まずは零児VSアイザック戦の続きから始まります。
 そして、この巻にてアイザックの予測不能デッキの処理が複雑であるが故にこち亀ばりに台詞が長くなってしまっていて読むのに忍耐が必要になってしまった所ですね。
 これは漫画故に起こった弊害でしょう。アニメなら声で処理してくれますから複雑な処理でもそこまで苦痛にはなりませんから。
 気になる所は、アイザックがアダムを助けられたかも知れないのに嫉妬心からしなかった事をEVEは気付いているかどうかという事ですね。その辺りは読者に委ねられているといった所でしょう。
 そして、アイザックは敵に本拠地を探られるなら死を選ぶという無茶っぷりです。作品によっては潔い描写となるのかも知れませんが、この優しい作風の漫画ARC-Vでは穏やかではないと感じます。紫雲院に回収させる展開にしたのはベストだったと言えると思いますね。

 EVE組の本拠地は南極だったり、氷の中に滑走路を仕込んでいたりと、やはりこの漫画のスケールはデカいと何度も感じてしまう所です。
 そして、スパイになる際にその性格上重要な情報を漏らす危険があるとの事で一部の記憶が消されていた紫雲院がその記憶を取り戻して再出陣となります。
 一人称も『オレ』になり、挙げ句の果てには作画のタッチすら変貌するという豹変っぷりを堪能出来ます。
 そんな豹変をし、かつ沢渡にクソミソ言ったにも関わらず、そんな彼を気遣う沢渡は非常に性格イケメンだったとおいう事がここで分かる事になります。
 この漫画沢渡の描写は、言うまでもなく第三話からゲス行為をしたアニメ版からの反動だったと思われる所ですね。吉田氏は非常に良い構成をしたと思います。
 それと、紫雲院はユーリに『嘘から出た誠』と言われていましたが、実際は逆で『誠から出た嘘』というべきでしょう。
『満足と諦め』についてですが、これは当初私はコミックを購入して初めて読んだ時には理解出来ない理屈だったのを覚えています。
 それは、私には理事長という極度のサイコパスが『身近』にいた事に起因するでしょう。サイコパスと呼ばれる人種は諦めという感性とは無縁、かつ諦めと表裏一体になる等という事が決してないからですね。
 しかし、普通の人になら起こりうる概念です。要は『これでいい』という考え方ですね、金八先生ではディスられた理論ですが。
 ちなみに、その『これでいい』を極めるまでに至ったのがアニメ5D'sの鬼柳京介だったと思う所です。彼のそれは『妥協しない妥協』とでもいうべき一見矛盾したようなスタイルでしたから。
 しかし、一番吉田氏にその考えを導き出させたのは『怪盗ジョーカー』ではないでしょうか。
 漫画版の遊矢の人物像はジョーカー(と西行寺幽々子)をモチーフにしたと思われますから。
 そのジョーカーはカレーを期待したいた所に鰈(かれい)を出されても満足してしまうという寛容な性格で(しかもアニメ版ではこの描写が何故か二度に渡り描かれていました)、この事からも満足と諦めが表裏一体だと吉田氏が感じた所なのでしょう。
 そのように一長一短のある諦めと表裏一体の満足ですが、私はサイコパスの人にはそういった柔軟性が少し必要だと思う所です。
 無論、サイコパスと呼ばれる人種にそのような事を期待するのは、肉食獣に草食になってもらう事を願うような日和見な考えなので、こちらはサイコパスの人とは関わるのを極力避けるのがベストであり義務という事なのでしょう。
 そして、サイコパスは決して諦めは満足とは直結しませんが、かく言う私も諦めにより満足はしなかったクチなのでしょう。
 しかし、その性質は大きく違う所ですね。サイコパスの場合は諦めないからその力で押し通して実現しようとするのに対し、私の場合は諦められなかったから、他の何かを生み出して満足出来るものを生み出そうとする性質が強かったように実感します。
 その事がホームの自室の圧迫感によりRPGツクール作品制作を『諦める』に至りましたが、断じてそれで『満足』などしていなかったが為に紆余曲折あって小説やブログ記事等の文章執筆の才能が開花したのだと思い返してみて実感する所です。
 ともあれ、満足と諦めが表裏一体な感性というものは、世の中を生きて行く上で程々には必要だと思う所ですね。しかし、それを認めない人が幅を利かせているからこそ世の中は穏やかにはならないという事なのでしょう。
 最後に、ナイトメアリーへのユーリの言及から、このモンスターは素良の妹の美宇の記憶がG・O・Dの力でモンスター化したものという事だったのでしょうか?
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 ……長くなりましたので、一旦ここで切り、後編へと続かせてもらいます。