タイトルの通り、キアヌに移転してからこれらの人種から感じるようになった事。
そして、『転生したら剣でした』や『マインドクラッシュは勘弁な!』などの小説から受け取ったメッセージから考察して。
サイコパスの人がどういう風に『人を愛しているのか』という結論が私なりに導き出せたので、ここではそれを記そうと思います。
まず、転生したら剣での話ですね。ここで邪神を崇拝している悪役が登場する話のところを私は読んでいます。
そして、そこでの描写は悪役は邪神から得られるエネルギーだけを目的としており、邪神そのものへの敬意は一切存在しないというものでした。
続いてマインドクラッシュは勘弁な! の描写ですね。
ここでは力とは手段の一つであるべきだと記されていて、力そのものを目的とした者の末路は……という事が書かれていました。
そして、遊戯王5D'sにてディヴァインは十六夜アキを人間としては断じて愛していない事は明白で、力としてしか愛していない事は明らかだったでしょう。
それらの事から、理事長のようなサイコパス達の人の愛し方というのが見えてくると思います。
それはずばり、『サイコパスは人を一個人としてではなく、自分を構成する為の力』として愛しているという事が見えて来ました。
そう考えると、理事長が今まで私をホームに縛り付けたかった理由というものが分かるでしょう。
そうですね、自分の力として手元に置いておきたかったという事でしょう。故に私がホームで過ごし辛いから他の所へ行きたいという意見をねじ伏せてでも、自分の力として所有し続けたかったと考えられますね。
その裏付けとなりそうなのが、理事長がコロナ禍となって自分の好きな大勢を招いてのパーティーをし辛くなった代わりの埋め合わせに、自分のお気に入りの他のホームの入居者を木曜から日曜まで決まって毎週住まわせるという行為に走った事ですね。
そのお気に入りと理事長はスケジュールの関係でほとんど会わないにも関わらずに毎週自分のホームに住まわせたい、他の職員さんの迷惑も顧みずのその行為の真意を考えるとこうでしょう。
理事長はそのお気に入りを自分を構成する力と見ているからでしょう。その為にそのお気に入りが自分のホームに半分住んでいる状態となる事で、自分に大いなる力が備わっている状態を満喫出来る要素となっている訳ですね。
加えて、理事長は新しくホームに入ってくる入居者に対しては盛大にパーティーを行うのに、ホームから離れる際にはお別れ会というものは『断じて』行わないというのも、入居者を個人ではなく自分の為の力としてしか見ていないから、自分の力で無くなる者には一切の情というものは生まれないという事なのでしょう。
これらの事から考えると、ディヴァイン崇拝者もディヴァインを人間として好感が持てるというのではなく、自分に力を注ぎ込んでくれるエネルギー源のように思っていただろうという事です。
つまり、彼等もディヴァインを高性能の『物』として崇めていたという可能性ですね。
そう考えるとディヴァイン崇拝者が否定者を『ディヴァインだから』という事を隠して他の理由を付けて攻撃するのも頷けるのではないでしょうか。
要は、お金が欲しい強盗がわざわざ『俺はお金が好きだ!』等と言及するのはおかしいという事ですね。何も言わずに強引に金品を奪えばいいのですから。
つまり、彼等は否定する姿勢を打ち崩せればいいだけの事ですから、自分がディヴァンを好きだと言わずに力ずくで否定をやめさせればいいとの判断で凶行に出たという事でしょう。
これは、『機動戦艦ナデシコ』のエピソードのように、大切な人を馬鹿にされたというより好きなアニメを馬鹿にされたから戦争を起こしたという理論に似ているのではないでしょうか。
このような人を力としてしか見ない理論に嫌気が差した人には、この野村美月氏の『卓球巫女シリーズ』とでもカテゴライズすべき作品集をオススメしておきます。
これは、作者が『華代ちゃん』のモデルになっている大学時代の友人の『カヨちゃん』という方に対して、『人間として』憧れていた事が物語構築の下地になっているようです。
つまり、断じて巫女や神としての力を持つ者として華代ちゃんを愛しているのではなく、一緒に過ごして楽しい友人として好きである事を存分に書かれている心の通った構図となっていて人間愛というものを満喫出来る良作になっていると思います。