雷獣ケーキ

東方を中心に二次創作小説やゲームデータを置いたり、思った事を気ままに書いていきます。

【アニメ】鬼滅の刃028

【無限列車編から私が得たもの】
 ……と題して、無限列車編の感想の後に、このような話題の記事を書かせて頂きたいと思います。
 その後に私が遭った事情により、アンチとはいかないまでも少々斜めからの見解になるだろう事を予めお断りしておき、そういうものが嫌な人、無限列車編の余韻を味わっておきたい人はご覧にならない事をお薦めします。
 まず、無限列車編というのは鬼滅の刃らしくユーザーの自由な見方というものを抑制しているものと考えるのが妥当でしょう。
 選択肢を狭めて深く考えなくても入り込めるようにしたのが鬼滅の刃がここまで社会現象を巻き起こした一因である事は疑いようの余地もありませんから。
 なので、無限列車編の見方というのは主に『竈門炭治郎が抱える背景をおさらいしながら下弦の壱へと立ち向かっていく』と、『煉獄杏寿郎の生い立ちを明かしながら彼の心情と強さを表現していく』の二つになると思いますね。
 それ以外というものは、この作品の性質上介入する余地というものはないと考えて自然でしょう。
 そして、後者である煉獄の心情の一つに『強さとは、体だけの事ではない』というものがありました。
 これは的を得ているものでしょう。猗窩座のように戦いに置いてのみの強さだけを強さと認識するのは間違った理論であり、そこには心の強さというものが必要不可欠なのですから。
 しかし、最近の私の状況の経験から、それ『だけ』では足りない事に気付くに至った訳ですね。
 少々私情な話をさせていただきます。
 私はグループホームを以前の自身には合わない環境の場所から移転して、とても過ごしやすい場所へと移る事が出来ました。
 それを切っ掛けにして、以前のホームでは環境からくる苦痛のために断念してしまっていたものの再開をするに至りました。
 それは、PC版のRPGツクールである『RPGツクール2003』の再開という事でしたね。
 そして、ツクール製作というものは小説を書いてから実感した事ですが、それよりも重労働である事を思い知らされるに至っていたという訳です。
 そこで、私は本能的な感性と閃きの類いからでしょうか、このような事を思いつくに至りました。
 それが、『ベランダでの歯磨き』という事だったのです。
 圧迫感のある屋内での歯磨きが内臓に負担が掛かるならば、外の空気を吸いながらの歯磨きならばどうかと、頭で考えるよりも衝動で動くに至ったというものです。
 結果は大成功でした。屋外で歯磨きする事で、胃腸に掛かる負担が和らぎ、快適に歯磨きをする事が出来ました。
(それをやりやすくする為に100均で買った小型のバケツが大活躍する事となったのですが、それはまた別の話ですね)
 そして、そこに加えて思わぬ副次的な効果もあったという事ですね。
 それは、屋外で歯磨きする事によりお腹の中により多くの空気が入る事となり、その結果理想的な呼吸である『腹式呼吸』がごく自然に出来るようになったのです。
 しかも、それが外での歯磨きの時のみならず持続的に腹式呼吸を行える体質になってくれたという事です。
(それを助長するのが歯磨き粉である事も重要だと思われますが、これも別の話という事で)
 ともあれ、ここで重要なのがこの『ベランダ歯磨き』による腹式呼吸により、徐々に私のお腹回りが痩せていったという事なのです。
 そう、私は着痩せするタイプという事だったのです。分かりやすい例を挙げれば『くりぃむしちゅ~』の有田氏のような体型といえばいいでしょうか。
 故に、この事は常に私のコンプレックスだった訳なのですね。
 それが、徐々にではあるがまさかの解消状態となった事は願ってもみなかった事なのです。
 これにより着痩せが解消しつつあるという事に加えて。
 実際問題のお腹が出ている事による物理的なリスクも解消していくのが実感出来た次第ですね。
 続けている内に、いつの間にかごく自然によく噛んで食べられるようになっていました。
 どうやらそれまでの私が早食いだったのは、腹部が圧迫されるが為に落ち着いて食事が出来ずに、そんなだから早く食べ終わりたいという強迫観念に囚われて結果早食いになってしまっていたのでしょう。
 それが、腹式呼吸による着痩せの解消状態となる事で早食い癖も解消していったという事と思われますね。
 それによる為か、私の思考も徐々にではありますが、ネガティブな傾向から改善がみられたという訳です。
 ここで漸く煉獄の名言へと繋がる訳です、お待たせしました(汗)。
 そうここで私が言いたいのは、彼の遺したメッセージである『強さとは心の強さでもある』という所に触れる事となります。
 そう、この流れから率直に言うと彼のその理論『だけ』では足りなかったという事なのですよね。
 つまり、私の経験から心の強さを得る為には肉体から洗練しないと難しいというものですね。生き物というものは、そう都合よく心だけ、肉体だけという風に分けて鍛えるような事は出来ないだろうというのが私の持論となった訳ですね。
 そして、この映画の裏メッセージのもう一つは、猗窩座がどういう人物であるかという所にもあるでしょう。
 彼の信条は『鬼にならないなら殺す』というもので、あまつさえそれを全国映画館で実行してしまったという暴挙でありますが、それは悪役らしい行為とも言えるでしょうが。
 しかし、そんな彼の信条に籠められた吾峠先生の本当の意味はこうではないかと思う所です。
 彼は『議論下手な日本人の縮図』もしくは『日本人の議論の擬人化』という所ではないかというものですね。
 調べてみれば、日本人のネットで行われる議論の方向性がほぼそういう形であると分かりました。要は、自分の意見が完全に通らなければ、相手を倒すだけ、という感じで。
 その事をアニメスタッフと吾峠先生は伝えたくて、このような劇薬的な表現をしたのでしょう。
 なので、煉獄が勝ってしまっては、猗窩座……もとい日本人の議論下手を肯定してしまう事になるので、それであのような映画にあるまじき最後にしたのだろうと思いますね。
 その事を気付いて欲しかったのでしょうけど、その事に関しては『誰か』という悠長な考え方ではないでしょう。
 それが、『私』という事でしょう。
 その為に、鬼滅の刃の吾峠先生と遊戯王セブンスの監督の近藤信宏氏は裏で結託していたと思われます。それに加えて、未来を予知するという未知の手段も『彼等』も持っていたという事でしょう。
 でなければ、近藤監督は『私が』無限列車編を映画館へ観に行った次の日に『重機愛でる姫君』を持ってくるという事は出来なかったでしょう。
 近藤監督も同じ考えでしょう。『僕がデュエルに勝ったら、皆にラッシュデュエルをやらせてあげてよ』という提案。
 これも議論下手の日本人の発想の縮図としているという事でしょう。
 つまり、吾峠先生や近藤監督は私に対して、『日本に建設的な議論またはそれに順ずるものを浸透させなければ本当の意味で猗窩座や六葉アサナに勝った事にはならない』というメッセージを打ち出したのでしょう。
 このような展開は、見世物を行ったら課題を出されたという感じですね。決まって感想文などを要求する小学、中学の旅行や社会科見学を思い出す所です。
 なので、そろそろ私にその『課題』に取り掛かる為の足掛かりというものを差し向けて欲しい所なのですよね。
 それを行う為にはデュエル構成をしてくれる人が必要不可欠なのです。私は遊戯王小説の物語部分は作れても、デュエル回しという左脳と専門知識を総動員する分野は他の人の手が欠かせない訳なので。
 最後に、無限列車編の裏メッセージはこんな感じでしょうか。
『足りない正義と、強行性の正義の争い』
 これを考慮してみると、最悪の組み合わせである事が実感出来ます。
 同じ裏メッセージを籠められたとある魔術の禁書目録一巻でもわざとそういう事をしていましたが、こちらは当麻もステイル・神裂コンビの二人も『強行性の正義』でありその小競り合いというものでしたが、これは建設的でないだけなので失う物もなく斜めから見ていればいいだけでしたが。
 無限列車編は、ヒーローだけでは足りずに他の人の成分を借りるのが望ましい所をそのヒーローを亡き者にするという展開ですので、建設性の種を摘み取ってしまうという暴力的なメッセージとなっていますから。
 このように無限列車編を『分析』に掛かっている私ですから、無論この映画には満足せずにアンチ染みたものになっている事は明白でしょう。
 それを吾峠先生と近藤監督の裏での結託により人為的に作られた訳で、それが私が新たな作品を生むのには必要不可欠という所なのでしょう。
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 後、無限列車編のその裏メッセージに関してですが、日本人の議論下手は日本人の根本から求める事を変えなければならないという所ですね。
 ネットの人間を見ていると、中にはその『理想的な議論』の内容を知った上で──自分の手の内は相手に悟らせずに事を運び、かつそれでいて完全に自分の思い通りの結果を出すべく相手を操り相手の意見は退けるという人もいますから。
 つまり、日本人に理想的な議論を知らせるだけではダメであり、理想的な議論から得られる物自体に興味を持たせるという事が必要という事になってきます。
 要は、『自分が完全に思い描くものが手に入らずとも、何か有益なものが手に入る事を喜びとする』感性が必要ではないかという事ですね。
 なので、昔の私の経験ですが、ルギア爆誕を目当てで映画館に行ったがその映画館では上映されていなくて、代わりにスターウォーズ・エピソード1を観たらその世界観に興味を持ってスターウォーズ自体に価値を見出した、このような体験・感性を大切にしていく必要があると私は思うに至った次第という事です。