【雑記】ゲーム作品のアニメ化の難儀さ
昔は人気アニメがゲーム化されるという展開から始まったものですね。その中には俗に言うクソゲーの類いとなるものも多くあり、今では話のネタになってしまうというものですが、その事に関してはここでは割愛します。
私が言いたいのは、その後の展開というものですね。
そう、タイトルにあるようにその逆である、ゲームのアニメ化というものが発足し始める事となったのです。
今ではそう珍しくないやり方ですが、当時としてはかなり斬新だったというのを記憶している所です。
しかし、これがなされている以上皆さんは思った事があるかも知れませんね。
『人気ゲームはどんどんアニメ化していって欲しい』
でも、現実ではそうストレートに行くというものでは無かったのですね。
ボリュームのあるゲームのアニメ化作品だと、ストリートファイターIIやバーチャファイターやパワーストーン等が挙げられるでしょう。
ですが、これらの作品はゲーム本編では専ら戦うという構図である為にアニメ化してストーリーを付けるとなると、ほぼ展開はオリジナルのものとなるという事になっていった訳です。
そのようにして、実際はポケモンのような例外があれど大概が『ゲーム本編とは別物の展開で進められていく半オリジナル作品』となっているケースが多いというものなのですね。
それの集大成とも言えるのが、この日米共同作成を行った『ロックマン』のアニメだろうという事になりますね。
無印のロックマンのアニメ化を名乗っているにも関わらず、そのデザインはゲームのロックマンとは少々掛け離れたものとなっており、ほぼゲームとは無縁のオリジナルの作品となっていたようです。
版権問題や『アニメ観ればいいや』という考えになってゲームの売上の低迷に繋がる懸念等からゲーム通りの展開にするのが難しいという事なのでしょう。でなければ、聖剣伝説2や、果てにはファミコンで一番人気だったゲームであるドラゴンクエスト3等はとっくにアニメ化されている事でしょう。
色々なサイトを見て回ってもどこでも酷評となっている『アニメ:サイバスター』。
これも、スタッフの力量の問題もあった事でしょうけど、ゲームと同じ造詣のキャラクターを版権問題などから使えなかったという経緯もあった事だろうと今思いますね。
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【雑記】アニメの限界
人気小説や人気漫画、これらの作品がアニメや映像作品になるという事は作家から見ても一つのバロメーターとなるでしょう。
しかし、そのアニメ化・映像化はあくまで表現の一環である事を忘れてはいけないでしょう。
進撃の巨人等のような超人気作品ともなれば長い年月を掛けて原作の全ての展開をアニメに落とし込むという試みもなされる訳ですが、それは極めて特殊なケースであると念頭に置いておかないといけないでしょう。
私が愛読しているわしかわいいこと『賢者の弟子を名乗る賢者』もこのようにアニメ化されていますが。
この小説は早10年以上の執筆がなされており、超ロングセラーとなっている訳です。
その小説の展開全てをアニメに落とし込む……これはほぼ不可能と言っていいでしょう。
それと同じような事が『うしおととら』にも起こったという事ですね。
原作がロングセラーとなっていたから尺に限りがあるアニメでは限界があり、3クールで白面の者を倒すという原作大幅カットという対処をせざるを得なかったという訳ですね。
また、アニメではないけれども夏目漱石の小説である『こころ』がドラマ化されているのですよね。
そのドラマを私は国語の授業で中学と高校と二回観る事になったのですが。
その際に両方の先生から『これが本物であるという見方はしないで下さい』という旨の前置きを置かれたというケースがありますね。
つまり、アニメ・映像作品は例外があれど表現の一環であるという事を念頭に置いておかないといけないという事ですね。
映画:ハリー・ポッターもローリング氏の言伝で原作に忠実という指示を受けて作られていますが、これの場合だと原作の要点だけを切り取って二時間程に収めるという事がなされているので、詳細を知りたい場合は原作を読むのが良いという事になっていますし。
アニメの力として現実の鉄道などの演出を落とし込む事が出来るという魅力もあるでしょう。何せ音声と動きがあるのですから。それが存分に活かせたのが『シンカリオンシリーズ』という事ですね。
しかし、これも単に鉄道の有志だけを見たいのならば実写番組を観るか、行動力のある人は駅に赴いて見に行くという事も出来るでしょう。
つまり、鉄道に関してはアニメの表現上必要だから切り抜いて再現するのであって、鉄道だけを見たいのならば本物にありつく方が感動も大きくなるというものでしょう。
ノンフィクションのアニメがエンターテイメント性やヒーロー確立と無縁なのは言うまでもないでしょう。横田めぐみ氏の問題を伝えたくて作られたアニメである『めぐみ』。
これはエンターテイメントではなくてオタク層にもこの問題を受け止めてもらいたくて作ったドキュメンタリーアニメとなっているので、ここにドラゴンボールのようなヒーローの活躍を盛り込む等という事は出来る筈が無いという事ですね。
つまり、私が言いたいのはアニメとは原作の上位互換では必ずしもなく、一つの表現方法であるという事に帰結する訳ですね。
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【アニメ付け加え】
サザエさんやドラえもんのようにずっと続ける構図が仕上がっているのは、非戦闘アニメに限る事でしょう。
それをドラゴンボールZは否定してくれるという夢を見た事もある人も多い事でしょうけど。
実際はフリーザ編までが華だった訳ですよね。人造人間編から引き伸ばしによる陰りが見えて来たのは明らかというものです。
なので、ずっと戦い続けるというのが無理だったのを認めずにGTを否定しつつ発足した『ドラゴンボール超』は私は好きではありません。
特にアニメ版の方ですね。鳥山明先生が直接ストーリーを手掛けている漫画版はそこそこ面白くは感じていますが。
その超も結局はアニメ終了してしまっていますし。
結論から言うとサザエさん方式のバトルアニメというのは作るのは無理があるという事でしょう。日常アニメと、悪が必要なヒーローアニメは同じ感覚では出来るものではありませんから。
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【ラブカの呪いに関して】
ラブカを私が観る度に不幸な事が起こる呪い。これを仕掛けて来た緋欲の真意というものが何かというのが見えて来たと思います。
まず、これが最初に引き起こされたのがムーンドリーマーを儚月抄のノベライズから入り、そこからオリジナル展開にしようと思って依姫に原作通りに勝たせたら感想という名の中傷文が書かれた事から始まった訳でして。
その後の呪いに関して、不幸の代わりに起こる良い事というのが『ムーンドリーマーを○章まで書いたという区切りが良くなる』という自身の努力が報われるだけという不公平な構図で、かつムーンドリーマーの執筆終了した後は不幸だけになった事。
そして、ラブカがシン・ゴジラの第二形態に起用された経緯から察して。
シンは視聴者に意味の解釈を委ねるというものの、その中に確実に『罪』はあるだろうと思われる事からですね。
儚月抄のテーマもその罪であった事から考えて、『私に自主的に綿月姉妹、特に依姫を倒す展開を書かせる』というのが緋欲の目論見だっただろうという事ですね。
緋欲のルールから判断するにこれの突破口となるだろうなのがこれですね。
『東方と直接関係ない鉄腕DASHを利用し続けてきた』という事ですね。
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