前述の記事の通り、私の根本にあるのは『判官贔屓』である事が分かりました。
その中でも、私が挙げた一つであるウェンディ・ギャレットは私以外の他の作家からの評価も高かった事でしょう。
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・ルル・アージェス(平成ガイキング)
・志葉薫(侍戦隊シンケンジャー)
・レベッカ・アンダーソン(DOG DAYS)
・綺羅ツバサ(ラブライブ)
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等のウェンディの要素に手を加えて自分の作品で独自の活躍をさせていくというキャラクターが『後の時代に続々と』作られていきましたが。
ここで私が一番話題にしたいのは、『過去の時代に発表された』このキャラクターなのですよね。
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・キノ(キノの旅)
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そう、この作品はお分かりのように、ガン×ソードよりも先の時代に発表された産物なのです。
しかし、私にはこう思えてなりませんね。
──キノの方こそ、『強いウェンディ』を構想して新たに作り上げられたのだ、と。
ウェンディの後の時代のオマージュは前述のように他でなされたのに、キノの旅だけは何故前の時代に発足したのかという事になるのでしょうか?
それは、この小説が後に極めてロングセラーとなっていく事にあるのだと思います。
前述のウェンディのオマージュは謂わば使い捨てです。レベッカもDOG DAYSが二期以降で群像劇になっていく辺り、彼女にばかりスポットが当たらなくて、ウェンディの再利用としての活躍は十分とは言えなく仕上がっています。
それに対して、キノの旅は十数巻続いている長編ですから、ウェンディの再利用の目的は十分に果たしていると言えるでしょう。
つまり、安易に『ウェンディの存在があったこそ、キノの旅は昇華された』という答えには行き着かせたくは無かったという事なのでしょう。
この考えは、時雨沢恵一氏にも谷口悟朗監督にも色濃い事であるのは察しやすい所ですしね。二人とも、ユーザーには作り手の考える答えというものは強制したくないというスタイルが強いですから。
この事から私が言いたいのは、不遇なキャラクターに出合った際に取るべき一つの手法は、『オマージュしてそのキャラクターを噛み砕いて自分のものにし、そして再構築して新たな自身のキャラクターとして活躍させる』であるという事です。
そういう考えの元に、私は自分でデュエル構成が出来ないにも関わらず、漫画ARC-Vの続編に、『龍亞と真壁いちゑとマリア・カデンツァヴナ・イヴを足して強くしたようなキャラクター』の構想がほぼ出来上がってしまっているとい始末なのですよね。